山形県のお米について
生産の歴史
山形県の米作りは8世紀の出羽の国があった頃まで遡ります。 安土桃山時代の豊臣秀吉がいた頃も、「庄内米」が選ばれるほど米の産地として育まれていきました。 その後も庄内藩は産米増殖を進めていき、献上米を保管するための倉庫が沢山建てられたほどです。
廻米航路が開かれた酒田港は、大阪の堂島などと並ぶ米取引の中心地となり、大きく繁栄しました。そんな背景をもつ庄内地域では、農家の人々が切磋琢磨しながら米作りを受け継いでいます。そして、近代科が進んだ明治10年代から稲作は盛んになり、収穫量も増えていきました。
その中で生まれたのが「亀の尾」という品種です。明治26年に阿部亀治が創選し、大正時代になる頃には神力、愛国とともに日本水稲優良三大品種に数えらたのです。
「亀ノ尾」は、安定して収穫できることや、質もよくおいしいお米だったことから全国に広まっていきました。。
特に美味しいお米としての評価が高かったため、その後多くの品種改良の交配母本とされ、今日の美味しいお米のルーツにもなりました。
現在でも人気の高い「はえぬき」も「コシヒカリ」も、美味しいお米といわれる品種のほとんどが「亀ノ尾」をルーツに持っていることからも、その美味しさと人気のほどが伺い知れます。
戦後から現在にかけて
戦争が始まると、お米に対する需要が一変します。食料不足だった日本は、質よりも量が求められるようになりました。金銭よりも食料が貴重とされる時代だったからです。 日の丸や大国早生などの少ない肥料で沢山育つ品種が誕生し、これが国民に広まっていきました。
その後もしばらくは多く収穫できる品種が優先されたため、ササシグレやハツニシキ、フジミノリなどが主力の銘柄となりました。
昭和40年代に入り、山形県で作られる品種も大きく動くことになります。しかし、庄内地域と内陸地域では、同じ県とは思えないほど米作りの方向性に大きな違いができました。その頃は、山形県の全国農業共同組合は、全農山形と全農庄内に分かれていました。平成20年に両者が一緒になるまで、それぞれが独自の動きをしていました。